・バックナンバートップ

日本の国益を考える
無料メルマガ「アメリカ通信」

・リアリズムの話をしよう





地政学を英国で学んだ
しばらくお待ち下さい。
2012年06月22日 究極のCS戦略:支配して生き残れ!?

-▼今日のChoke Point▼-

1:"支配"すると癒される?!
2:原発問題に顕れる「コントロール」感覚
3:"C"ontrolと"S"urviveの「戦略」

-▲         ▲-

#チョークポイント - Wikipedia ( http://goo.gl/z1J9z )

■---■---■---■---■---■---■---■---■---■---■---■---■---■---

前回の編集後記でも「大飯原発 再稼動」を取り上げていたが、
今回の「アメ通」では、このタイムリーな問題に関したことを
「コントロール」の感覚という概念を使って考察してみたい。

ブログの方をお読み頂いている方には繰り返しになってしまうが、
私が最近読んだ『専門家の予測はサルにも劣る』( http://goo.gl/vDE2C )
という書籍の内容が、非常に示唆に富んだものであった。

▼地政学を英国で学んだ : 書評:専門家の予測はサルにも劣る
 http://geopoli.exblog.jp/18440346/

この書籍では、「専門家の未来予測というのは当たらない」
という数多くの例を紹介しつつ、
そもそも人間には「(誤っていても)予測を信じたい」
というメカニズムが備わっていることを、
最新の心理学的知見などを総動員して解説している。

しかし、私がこの本を読んで特に興味を惹かれたのが、
「コントロール」というコンセプトについて
説明されていた箇所であった。

この「コントロール」というものを、
あえてわかりやすく大まかに定義すると、
「状況を思い通りに"管理"できる能力」
ということになる。

一般読者向けに書かれた国際政治の本などでは、
この「コントロール」という言葉を「支配する」という
強いニュアンスで表現している例も見受けられるが、
これは誤解を生む表現であり、より正確に言えば、

「ある程度自由な状態を許しながら、適度なところで管理する」

というニュアンスに近いだろう。

蛇足であるが、読者の皆さんもお馴染みであろう、
経営学者ピーター・ドラッガー氏が提唱したコンセプトに
「マネージメント」というものがあるが、
これもこの「コントロール」という感覚に近い。

さて、『専門家の予測はサルにも劣る』にある、
「コントロール」という概念の説明なのだが、
以下のような興味深いことが書いてあったので、
まずはこれを簡単にお読み頂きたい。

(↓引用はじめ↓)

自分の環境を全くコントロールできなくなると、
人はストレスにさらされ、病気になり、早死にする・・・
このように「コントロール」とは
人間にとって基本的な心理的欲求なのであり、
コントロールなくして暮らすことは、
文字通り「拷問」にもなりうる。

(↑引用おわり↑)

上の文をいいかえれば、
「コントロールができている」と感じることが、
人間の心理的安定に必須である、ということなのだが、
これはあらゆる政治問題にも当てはまる。

そして現在の日本において、
この「コントロール」という概念が、
最も先鋭化した形で現れているのが、
一連の「原発問題」なのである。

              -*- -*- -*-

一つの事例として、東京電力福島第一原発の問題を考えてみよう。

国内の大手マスメディアの報道を見る限りの話ではあるが、
これまでのところ、この事故による直接的な死者は出ていない。
その意味では、この事故を直接的原因とした死者数のみで
冷静に見れば、原子力発電はその他と比較して
圧倒的に「安全」なテクノロジーだということになる。

これを別のエネルギー源である石炭の場合で考えてみると、
中国では毎年千人規模で炭坑事故による死者が出ているし、
最近では、ニュージーランドの炭鉱事故で大量の死者が出た
というニュースを覚えている読者の方もおられるだろう。

さらに、石油に関していえば、
過去40年間で2万人以上が死んでいる
というデータもあり、しかも、その処理過程で出た空気を吸い、
呼吸器系の病気を患い亡くなった人の例も多数確認できる。

あのチェルノブイリの事故ですら、死者の数は数十名であり、
スリーマイル島の事故に至っては、直接の死者数はゼロである。

ここで対象の軸足をズラして、
例えば「車」というテクノロジーと比較してみよう。

車というのは、現在地球上で最も多くの、
無実の人間の命を奪い続けているテクノロジーである。
日本だけで考えてみても、
毎年コンスタントに1万人前後の命を奪う、
文字通りの「殺人マシーン」なのだ。

つまり単純な死者数だけで考えると、
「原発」よりも「車」のほうが圧倒的に危険なテクノロジー
ということになるのだが
なぜか「反車運動」というものは起こらず、
直接的には誰一人の命も奪っていない原発に対して
「反原発運動」が起こってしまうのだ。

もちろん世界で唯一、原子爆弾を投下された国家として、
日本には核エネルギーに対する猛烈な不信感があり、
原子力発電への恐怖感があることは私も否定しない。

しかしその点を考慮したとしても、
単純に「死者数を出す」という基準で計れば、
車のほうが圧倒的に危険な存在であることは明白である。

ではなぜこのような不思議な逆転現象が起こるのだろうか?

それはこの問題の"チョークポイント"が、
人間のもつ「コントロール」感覚にあるからだ。

              -*- -*- -*-

「原発」と「車」というテクノロジーを比べるのは
ナンセンスと思われる方もおられるだろう。
しかしこの二つの「危険度の感覚の違い」
の"源泉"のようなものを突き詰めてゆくと、
究極的には「一人ひとりがコントロールできる範囲」
というものと密接に絡んでくることがわかる。

端的に言えば、我々人間は
「自分のコントロールが効かない」
(と感じている)場合には、
その状況を危険だと感じる、ということなのだ。

上述の例で言えば、

「車」のリスクの管理は、あくまでも個人の責任である。
個人の技量(ドライビング・テクニックや"運"?)によって、
リスクを「ある程度のコントロールできる感覚のもの」だから、
たとえ、年間一万人の死者を出そうとも、
大きな危険を孕むテクノロジーであるとは見なされない。

一方で「原発」は、国家プロジェクトとして
一部のエリート達が、専門知識や高度な機器を使って管理しており、
一般人では手の出しようがない、
「コントロール不能」な領域に存在している。

だから事故による直接的な死者は出ていなくとも、
人間の感じる恐怖感だけは劇的にアップするのだ。

これは、それぞれのテクノロジーを
「コントロールできている」
と感じているかどうかという点が、
その「恐怖感」の度合いを決めているからだ。

つまり、冒頭でご紹介した
『専門家の予測はサルにも劣る』

の引用文にもあるように、

"「コントロール」とは、
人間にとって基本的な心理的欲求"なのだ。

もちろん今後出てくるであろう、
放射能の遺伝子レベルでの影響など、
事故に纏わる多くのことが未だ明確になっておらず、
それが恐怖を生み出しているという面も否定できない。

しかしこの「放射能の遺伝子レベルの影響」
という恐怖感にしても、
よく考えてみれば、その悪影響を
「コントロールできない」と感じてしまう、
人間の無力感から出てきているとも言えるのだ。

また、ここまでの議論のコンテクストを正確に追って頂ければ、
私が特に「原発擁護派」という立場から
議論を行なっているわけではないことは
みなさんにも冷静にご理解頂けると思う。

              -*- -*- -*-

哲学者のカントは、

「人生の選択肢があるかないかが、人間と動物の根本的な違いだ」

と言った。そしてその選択肢のカギは、
それがたとえ「幻想」であったとしても、
自分の人生を「コントロールしている」
という感覚を得ることができるかどうかにあると言える。

そして、「選択肢」ということで言えば、
民主制度もまたしかり。
この制度では、民衆自らが「政府をコントロールできている」
という、いわば「幻想」から、
正統性(レジティマシー)が生まれているのだ。

読者の皆さんに「またか...」と思われてしまいそうであるが、
「アメ通」の大きなテーマ(=大前提)ともなっている問いを発しよう。

これからますます厳しさを増す世界で、
しぶとく、したたかに生き残ってゆくには
われわれは一体何を為すべきなのだろうか?

私はその答えのカギを握っているのが、
今回のテーマである
「コントロール」についての感覚だと思っている。

そして、その「コントロール」のために
絶対的に必要となってくるのが、
リアリスト的な観点から出てくる「戦略」なのである。

その理由は、読者の皆さんならば、もうお分かりだろう。

「戦略」を持たずに流されて生きるということは
「人や状況にコントロールされて生きる」
ということであり、この状態ははまさに、
動物や囚人と同じことになるからだ。

図らずも、冒頭で紹介した本の著者も
同様の事を言っている。

つまり「人や状況にコントロールされて生きる」
ということは、
自分に対する「拷問」に等しい行為なのである。

(おくやま)

つづきはこちら アメリカ通信バックナンバーへもどる


「戦略の階層」を解説するCD

戦略を語れない人生は奴隷だ

技術を制するのは高度な技術ではない。より上流階層からルール決めには対抗できない。
今こそ日本人は「戦略の階層」を学び、その全体像を理解しなければならない。

詳しくはこちらをどうぞ


このサイトはリアリズムについて学ぶ人を増やすためのサイトです。

さて、早速ですが、・ネオコンをはじめとする勢力が狙ってきた米国の世界一極覇権支配は、長くは続かない。・中国が膨張し、アジアの覇権をねらい、世界は多極構造になる。 90年代から上記のように予想し、米国内でも論争してきたのがリアリスト学派です。

リアリスト学派は、国家のパワー(軍事力、政治力、人口規模、経済力等)がもっとも大事な要素と考え、

正義やイデオロギー、理念は関係ない。国際関係はパワーで決まり、パワーを予測し戦略を立てよう

と考える学派で、19世紀の英国の行ったバランス・オブ・パワーを活用した大戦略を信条とします。

ところが「リアリスト」を自認する日本の親米保守派は、
「経済中心主義」で「安保無料(だだ)乗り」をし続けていますが、
実は、彼らは、以下の2点で決定的、かつ、致命的な誤りを犯していたのです。
そして、そうした日本の政策は、冷酷な米国のリアリストから、
単なる「バンドワゴニング」に過ぎない、と足元を見透かされているのです。

その2点とは、

(1)日本はアングロサクソン(米英)についていれば大丈夫。

(2)米国は「民主制度」と「法治」、「人権」を重んずる日本を信頼し、
   一党独裁の共産主義中国を嫌っている。

ということです。

まず、(1)については、
日英同盟時も上手くいった。だから、これからも米国についてゆけば大丈夫!
万事問題ないというものです。

しかし、我が日本が戦後60年間、幸いにして戦争に巻き込まれなかったのは、
ほとんど偶然の産物であったということは、強く認識しておく必要があります。

米国は国益に係わることならば、いとも簡単に「友達」を切り捨て、裏切る国である。
国論が変われば友好国をあっさり切り捨ててきたことは、これまでの歴史の事実が証明しています。

・日中戦争では、蒋介石を応援しつつも、途中から毛沢東支援にまわった。

・ソ連打倒のためには台湾(中華民国)を切り捨て、中華人民共和国と国交を結んだ。

・ベトナム戦争では出口がみえなくなり、結局南ベトナム支援からあっさり撤退した。

・米国が支援していた南ベトナムは崩壊し、大量の難民があふれ出た。

・イラン・イラク戦争の時、イランが戦争に勝って影響力が拡大することを恐れた米国は、
 サダムフセインに(イラク)に軍事的な支援をした。
 しかし、支援した米国は干渉してこないと思ったフセインは、その後クウェートに侵攻し、
 湾岸戦争、イラク侵攻と2度の戦争で米国に打ちのめされ、最後は米軍に捕まり処刑された。

如何でしょうか?

これでもまだあなたは、アメリカはずっと「友達」でいてくれる!

と思えますか?

次に、(2)についてですが、
欧米メディアなどの報道によれば、米国内における中国の工作員の数は激増しています。
更には、人民解放軍には「政治工作条例」なるものまであります。
彼らは世論戦、心理戦、法律戦からなる「三戦」の任務を与えられ、
まさに今、中国は国策として、米国内で「世論戦」を仕掛けている、というのが冷酷な事実です。

正義や真実でなく、ウソでも現実をつくれると考える中国の
カネも人員もかけたまさに「人海戦術」的な、この国家戦略が功を奏し、
すでに米国世論では「尖閣は日本が強奪した島だ」ということに傾き始めている・・・
この危険な状況を皆さんはご存知でしょうか?

-*- -*-

例えば、韓国との従軍慰安婦問題をみるまでもなく、
日本国内で、いわゆる「保守派」といわれる人達が、
どれだけ「真実」を主張しても、
同じ日本人であるはずの国内左翼勢力がこの外患に呼応するという、
典型的なパターンに陥っている事例は、枚挙に暇がありません。

白州次郎は「日本をプリンシプルのない国」と言いました。
しかし、残念ながら、この分析は現在の日本にも今だに当てはまっているのです。

これらの冷酷な事実を踏まえ、
本サイトで皆さんとともに真剣に考えていきたいのは、以下の2点です。

・日本はいかにして「パワー」を獲得すればいいのか?

・どんな国家像を描き、グランド・ストラテジーを立てればよいのか?

この二つの質問を念頭に据えて、米国のリアリスト思考を学び、
日本におけるリアリスト思考を広げ、リアリスト学派をつくっていく。

これが、このサイト、www.realist.jpの目的です。
あなたも是非議論に加わって下さい。



リアリスト思考を最初に日本にもたらした、
シカゴ学派、元フーバー研究所上席研究員、故・片岡鉄哉先生に捧ぐ

日本がこのままの状態でいけば、
少なくとも十年以内に、二流、三流の地位まで確実に堕ちていくことになる。
現在の日本の状況を冷静に見れば、
どう考えてもそういう結論しか出てこないのだ。
しかし、日本はそのまま堕ちっぱなしというわけではない。

何年後になるかわからないが、日本はしぶとく復活するはずである。
国家というのはいつまでも堕ちっぱなしということはなく、
反省して自覚した国民が生まれ、それが国を復興することになるからである。

そのときに、決定的に必要となつてくるのが「理想」である。

地政学の祖であるマッキンダーは、
「人類を導くことができるのは、ただ理想の持つ魅力だけだ」
と言っている。

しかし彼は、同時に現実を冷静に見る目を
忘れてはならないことを鋭く警告している。
それが地理と歴史を冷静に分析した、
地政学という学問が与えてくれる視点なのである。
彼が一九一九年に発表した『デモクラシーの理想と現実』
という本の題名は、このような理想と現実のバランスの大切さを訴えている。

世界はこれから「カオス化」していく。
これはつまり、世界はこれからますます複雑化した
先の見えない場になるということである。

そして日本は、「カオス化」された状況の中で
自立を目指さなければならないし、
むしろ自立せざるを得ない状況に追い込まれることになるかもしれない。
そして、その中で世界に伍していくためには、
日本人は何よりもまず、リアリズムの思考法を身につけなければならない。

日本人は自分で責任を持って戦略を考えるという思考を捨ててしまい、
安易に平和的な解決だけを求めるという体質が染みついてしまった。
たとえば、外交における戦略も「善か悪か」で判断するため、
善を探そうとするあまり、次の一手がどうしても遅くなる。

しかも、日本が「善かれ」と思って世界に主張したことは、
まずもって善として見られていない。
他国はリアリズムの視点で「日本が何を狙っているのか」
と冷酷に見ているのだ。
だからこそ、わが国も外交戦略を「善悪」ではなく、
「強弱」で見るように訓練しなければならない。
「強弱」とは、現在わが国にとって、
この政策は他国と比べて立場を強めてくれるのか
弱めるものかという冷静な判断である。

弱いのであれば、より強い政策を打ち出さなければならないし、
強いものであれば、政策をより国益に近づけなければならない。
こうしたリアリズムの思考を身につけることは、
むしろ「国際的なマナー」なのである。